スモリヌイ修道院
エリザヴェータ皇后は、生涯を過ごす予定の修道院の建設をラストレッリに依頼しました。残念ながら、ツァールスコエ・セローの冬宮殿と夏の宮殿の建設に尽力していたラストレッリは、皇后の死までに完成させることができず、修道院も完成しませんでした。
国民に啓蒙を施したいという飽くなき願いを抱いたエカテリーナ2世は、スモーリヌイ修道院の残された部分を活用し、貴族の娘たちのためのフィニッシング・スクール(ロシア初の女性教育機関)へと転換しました。
若い女性たちは、大聖堂の両脇に並ぶ細長い青い建物に住み、そこで学びました。学校が拡張されるにつれ、隣接する黄色いスモーリヌイ女子大学が、生徒の収容場所として建設されました。
内戦中、この美しい大聖堂は野菜倉庫として使用され、後にイコンやその他の貴重品が持ち去られる間、閉鎖されました。
第二次世界大戦後、レニングラード博物館(今日と明日)として再開され、「党と政府の決議の実現に対するレニングラード市民の偉大な貢献」を展示しています。
この博物館も閉鎖され、現在は特別展や合唱団、室内楽コンサートが時折開催されています。
スモーリヌイ研究所も長い間、野菜で溢れていました。1989年まで、人民代議院はここで活動し、プロレタリア独裁広場の向かい側にあるレニングラード共産党本部のある近代的な建物からすべての注文を受けていました。
現在、研究所にはソプチャク市長とその政権の事務所が入っており、一般公開されていません(レーニン博物館の情報も参照)。